蘇我氏内紛の現場?

実は、歴史好きです。
奈良県明日香村の石舞台古墳の近くで、7世紀前半の建物跡とみられる柱列が見つかったそうですね。馬子の息子の蘇我蝦夷と馬子の弟の境部臣摩理勢の争った後かもしれないとのこと。以下、産経新聞サイトの引用

飛鳥時代の大豪族・蘇我馬子(そがのうまこ)(生年不明―626年)の墓とされる石舞台古墳奈良県明日香村、特別史跡)の隣接地で、7世紀前半の建物跡とみられる柱列が見つかり、奈良県橿原考古学研究所が8日、発表した。

 石舞台の石室とほぼ同じ向きに並び、同研究所は「古墳を意識してつくっている。蘇我一族が常駐した現地事務所ではないか」としている。

 日本書紀によると、馬子没後の628年、蘇我一族は総力を挙げ墓を造営。周りに常駐していたが、推古天皇の後継をめぐり、息子蝦夷(えみし)と対立した叔父境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)が小屋を壊し、一族の内紛に発展したと伝える。この事件の現場の可能性があるという。

 石舞台の東約100メートルで、少し高い場所にある棚田を発掘し見つけた。柱列は2つで長い方は9メートル以上。どちらも1.7メートル間隔で一辺50センチの穴があり、直径15―25センチの柱を立てたらしい。

 掘っ立て柱建物2棟の遺構と考えられるが、調査地が幅2メートルしかなく、同研究所は建物と断定できないとしている。

 別に一辺1.6―1.8メートルの大きな穴が2つ見つかり、直径30センチの柱を立てた跡があった。穴は深さが1.5―1.8メートルもあり、建物の柱とは考えにくいという。

 欽明天皇(生年不明―571年)の墓を620年に補修した際、各氏族ごとに大きな柱を立て、力を競ったという記事が書紀にあり、同研究所は「石舞台も蘇我の各支族が同様の大柱を立て、覇を競った可能性がある」としている。

 一帯は馬子の邸宅があったとされる島庄(しまのしょう)遺跡。石舞台の西約200メートルで、馬子が住んだ正殿とみられる大型建物の跡が見つかっている。

 現地説明会は11日午前10時から。

境部臣摩理勢は、蘇我馬子の弟という説が有力ですが、遠山美都男先生の本(聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか )では、蘇我稲目の弟ではないかと述べられています。
しかし、蘇我氏って不思議な氏族です。稲目の時代に急に現れて、天皇との血縁関係を結んでいきます。新興貴族がなぜあれだけの権力を握れたのかは、興味あるテーマです。

聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか
遠山 美都男〔著〕
角川書店 (2000.10)
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聖徳太子未完の大王
遠山 美都男著
日本放送出版協会 (1997.12)
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